湯川余話第五回
河原町通市電敷設と東桜町の屋敷
お住まいシリーズ4

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 秀樹さんのお住まいは「転々として」ということを強調してきたが、東桜町の家では比較的長く、小中高の少年時代を過ごした。しかし細かくみると、この期間中にも、一度、隣接する別の屋敷に引っ越しをしている。それは当初の家主の豊岡子爵が自分の住んでいた母家と借家の両方を実業家の山本某に売却して、所有主が変わったことによる。この時、それまで住んでいた借家の西に隣接している母家を新所有者から借りて、より大きな屋敷に移り住んだのである。

 

 「裏庭の一隅は竹やぶで反対側に近い方はあらい竹垣で仕切られて、鶏小屋になっている。大勢の子供に卵を与えようと、母は数羽の白いレグホンを飼いはじめていたのである。中間のやや広い空地は、私たちがキャッチボールや砲丸投げをやったりする場所であった。鶏小屋に近いすみに鉄棒があったが、私たちはそれを十分活用したとは言えない」(湯川『旅人』)。

 

 前回書いたように、東桜町の家は旧河原町通り面した西側にあり、広小路通りと旧河原町通りの角地だというから、現在の地図でいうと府立文化芸術会館のあたりである。この建物の住所は確かに「上京区寺町通広小路下ル東桜町1番地」である。しかし、旧河原町通りは後に西側を削って拡幅されているので、現在の「角地」と秀樹さんが住んでいた当時の「角地」と一緒ではなさそうである。

 

 河原町通りが拡幅されたのは市電の敷設のためである。千本通りの路線が今出川通りまで北上した後で、今出川通を東にむかって路線が伸びて、河原町通に達した後に、旧河原町通りを拡幅しながら南に向かって工事が進められた。そして、今出川通と丸太町間で市電が開業したのが1924年である。さらに南下して京都駅まで市電がつながったのは1929年の事のようである。同時に寺町通りの市電は廃線になった。市電の路線は河原町通りを北上してきたものと考えがちですが、逆だったようです。この市電の路線延伸と同時に河原町通りは現在のような広い道路に拡幅されたのである。東桜町の前に小川一家が住んでいた染殿町の家は市電の通る寺町通に面していた。

 

 秀樹さんが引っ越してきた最初の東桜町の屋敷は旧河原町通りに面していたので東側はだいぶ削られたが、工事が始まった時には、先に述べたように、西に接するもとの家主の屋敷に移っていたので工事の影響はなかった。

 

 御所の東北に位置するこの付近には湯川秀樹を記念する二つの石碑がある。一つは染殿町や東桜町の家に近い梨木神社の境内にある

「千年の昔の園も、かくやありし、木の下かげに乱れさく萩」

という湯川の句碑である。

 

 もう一つは、東京から京都市に引っ越した当初、小川家が一年ほどおった円覚寺の付近の路傍に立つ石標である。この石標の三つの面には各々「西郷隆盛邸跡」、「湯川秀樹一家寓居跡」、「相国寺七重塔跡」という説明が書かれている。幕末に西郷とその兄弟他6名が住んでいたらしい。また「七重塔」とは室町時代前期 にこの地に七重の塔があったという。「塔之段」というこの辺りの地名はそれに由来する。

 梨木神社境内にある湯川秀樹の句碑(梨木神社HPより転載)

 上京区下塔之段町にある石標(京都知新まち歩きHPより転載)