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湯川余話第十回
塔ノ段の家
お住まいシリーズ8

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 塔ノ段通の家は秀樹さんの父小川琢治が、京大定年を見込んで、自分の家として購入したものでした。琢治は東京での新婚時も京都に来てからもずーっと借家だったのである。この地域の住宅は京大創設時頃にまとまって新築されたようで、初代の教授たちが購入している。その時期に新築され、それから30年ほど経った中古を購入したのである。400坪もある大邸宅であった。秀樹さんの

「台所に井戸あり西瓜の縄おろし麦茶の瓶をあぐる暑き日」

という短歌がこの家の雰囲気を伝えている。

 

 この頃の京大教授のお住まいは借家が多い。天皇家が東京に移ったことで一部の元公家は京都に残ったが、失職したわけだから、政府からの一時金でレンタル用の邸宅を所有することもあったようだ。また寺社の塔頭を借家にしているのも京都らしい。小川琢治と同時に京都にやって来た朝永三十郎の家族は聖護院のある塔頭を借りて住んで、京大退職後は、京都には何の痕跡も残さず、長男振一郎の就職先である東京に引き上げている。さらに小川家の場合は年寄り3人、子供7人を抱え総勢12人の時もあったが、家族の人数は徐々に減っていくわけだから、借家の方が柔軟に対応できる事情もあったであろう。

 

 写真は塔ノ段通の家での小川琢治の家族写真である。お年寄り3名もお亡くなりになり、上二人の姉妹はすでに結婚して家を出ており、また、東大を出た長兄の芳樹はすでに家を出ている。写真に写っているのは、前列に座る両親と、後列左から環樹(三男)、茂樹(次男)、秀樹(三男)、滋樹(五男)である。環樹と滋樹(ますき)の二人はまだ大学生なので学生服だが、茂樹と秀樹はすでに大学を卒業しているので背広姿である。秀樹さんは1932年に湯川家に、茂樹は1945年に貝塚家に、養子として家を出た。

 

 この後、茂樹と環樹は中国古典の学者となり、秀樹と合わせて、兄弟三人そろって京大教授の時期がありました。芳樹も東大教授でしたから、兄弟四人が成功した学者だったという珍しい兄弟だといえます。この輝ける兄弟にあって、ひとり滋樹は不幸な人生でした。滋樹は京大法学部を卒業して九州の炭鉱会社に勤めるが、まもなく徴兵されて中国戦線に従軍、終戦の翌年になって戦病死していることが明らかになった。

 

 写真の時期から十年ほどした1941年11月に小川琢治は心臓麻痺で急逝した。ここで母親の小雪は東京の長男芳樹の家にひきとられたようで、この家は無人になった。その頃に秀樹さんはこの家を訪れて読んだ短歌がある。

「きてみれば雨戸とざせり裏庭の山吹花も葉もあらずして」

「なかば開けし雨戸の外の広庭の老梅ひとりくれないにして」

「父逝きてはやひととせか蔵に入りて水晶柱を手にとりてみる」

(短歌はいずれも湯川秀樹『深山木』より)

 写真 塔ノ段通の小川琢治の家で。

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