「湯川秀樹旧宅」の建築的価値
―2012年京都市委託調査から―
 

原田純子(はらだ じゅんこ)

古材文化の会 見守るネット副部長 京都市文化財マネージャー

 「湯川秀樹旧宅」は、2012年「京都を彩る建物と庭園」の認定候補建物となり、京都市から委託を受けた認定NPO法人古材文化の会が、チームを組み、調査をしました。

 

 古材文化の会は、1994年任意団体「古材バンクの会」として設立、2006年「古材文化の会」と名称変更し、歴史ある建築とそれを支える文化を学び、暮らしに生かす活動を続けています。

 「京都を彩る建物と庭園」制度は、2011年、京都市によって創設されました。市民から残したいと思える建物や庭園の推薦を受け、審査会に諮られた後、所有者の同意確認を経た上で「選定建物」となり、それらはリストに記載され公表されます。さらに特に価値が高いと評価された建造物は「認定建物」と位置付けられます。未指定、未登録、未調査の建物については、その認定候補建物調査を、毎年約10件、古材文化の会のもと、京都市文化財マネージャー(京都市文化財マネージャー育成講座修了生)が、担っています。

 2012年、私は、湯川旧宅調査チームに入りました。調査で度々伺う中、「いずれ残したい」と思っておられるご家族のお気持ちを大切にしたいと、つかず離れず、お付き合いを続けさせていただいていました。

 

 湯川旧宅の調査は「京都を彩る建物や庭園」制度成立後初年度のことで、調査員一同、手探り状態で取り組んだことを昨日のように思い出します。

 

 当時は、ご家族がご高齢でもあり、生活圏にまで踏み込むことが憚られました。そのため実測調査ができないまま、昭和37(1962)年の増築工事の時の青焼図面を元に、調査図面を書きました。
 実測ができないまま、建物の価値をどこに見出そうかと悩みつつ、湯川秀樹自叙伝『旅人』を開いてみました。「昨年(昭和32年)の1月、私は満50歳の誕生日を迎えた。」で始まる冒頭の一文にハッとしました。まさに昭和32年(1957)は、この地に転居された年でした。日本初ノーベル賞受賞に、敗戦で打ち拉がれていた日本、国中が湧きたつ反面、ご本人は疲れ果て体も壊し、医者に転地を勧められ、この地に辿り着かれた年でした。やっと、心身共に落ち着き「受賞に至る回想録」を執筆されるまで快復されたと思いました。玄関と露地門にかかる扁額「休影」「處静」「息迹」は、秀樹の自書です。糺の森の大木の木陰に佇むような「我が家への想い」と重なります。

 これらは、大好きな荘子の一篇から引用されたものです。
 『荘子』雑篇、漁父第三十一「人有畏影惡迹而去之走者、擧足愈數而迹愈多、走愈疾而影不離身、自以爲尚遲、疾走不休、絶力而死。不知處陰以休影、處靜以息迹、愚亦甚矣!」訳「自分の影を引きずって歩いている人の話、自分の影から離れようとした者がいた。どんなに早く走っても影はついてくる。これはまだ走り方が遅いのだと考えた。そこでさらにさらにと早く走る。とうとう疲れはて、木の陰にへたりこんだ。すると影から解放された。木の陰に入って、動かずにじっと静かにしていれば誰もついてこない。おかげで心身ともに落ち着いた。」 

 

【建物の概略】
所在地    京都府京都市左京区下鴨
建築年代  1934(昭和9)年頃 (旧土地台帳より1933年宅地売買)
敷地面積    723.04㎡(218.72坪)(公簿面積)
 主屋    木造2階建、入母屋造、桟瓦葺  1 階 137.68 m² 2 階 69.09 m² 
 書斎    木造平屋建          9. 58 m² 
 土蔵    土蔵造2階建、桟瓦葺      1 階 13.98 m²  2 階 13.98 m²

 

 敷地は東面が下鴨東通に接し、その北端に通りより後退して数寄屋風に凝らした表門を構え、北側隣地境界沿いに八瀬真黒石による霰零しの敷石を延ばし、入って間もないところに主庭への露地門、奥正面突き当たりに土蔵、その手前が主屋の玄関となります。敷地の全体を東西に二分して、西側に主屋と土蔵が、東半分には主庭が広がります。主屋の東側は、座敷と次の間を中心に北側に新書斎、南側に居間8畳が、コの字型に主庭を取り囲み、どこからも主庭を眺められる配置構成となっています。

 旧土地台帳によりますと、この土地は、昭和8(1933)年、四条通の鳥料理屋、玉水善七購入とあります。表門はじめ主屋内にも数寄屋風のところがあり、この時代の近代和風住宅が現在の湯川旧宅の原型だとわかります。
 湯川家には、当時の連合軍接収住宅の書類も残されており、昭和21(1946)年からトイレや風呂の2階移設など給排水衛生設備などが整備された記録があります。連合軍の家族住宅として接収されたことがわかります。その後元の所有者は戻らず、昭和29(1954)年 9月、株式会社ホテル・ラクヨウに所有権が移転、朝鮮戦争の帰休兵専用ホテルとなります。階段の位置替え、2階の部屋の個室化など大胆に改変され、また廊下の鴨居を上げた痕跡、白ペンキの片鱗など、アメリカ人が暮らした跡が今も残ります。
 その後、個人の所有を経て、昭和32(1957)年、湯川秀樹が購入します。
 昭和36(1961)年、ご長男の結婚と同居に合わせ、玄関東の書斎兼応接間を東側に1間拡張、主屋南側縁側の南に書庫やトイレ、階段を増設、2階南面も2部屋とトイレを増床、また庭の南東隅に書庫を建てるなど、ほぼ今の形となります。その後、1階南側の居間8畳の東側に縁を隔てて洗面所とトイレを設けています。

 玄関東隣の書斎兼応接間は、唯一の洋室で、安定した採光を確保できるように北面に大きな窓を開いています。主屋、庭に面した二間続きの座敷と次の間は、間に欄間を設け、中学生の頃から憧れておられた西田幾多郎の書の扁額「歩々清風」とご夫妻で習っておられた南宋画の先生、河野珠石の扁額がかかります。主庭を眺めながら、趣味の書や南宋画を楽しむことが何よりの憩いの時だったことしょう。絵と書のご夫妻合作作品が数々残ります。正月2日には門弟たちが集まり、また多くの著名な方々も招かれました。
 昭和45(1970)年、退官を機に、書斎兼応接間の東隣に新書斎を増築、趣味を満喫しようと楽しみにされていたそうですが、体調を崩され、あまり使われなかったようです。

 

 2012年当時の調査報告書の考察の最後は、以下の文章で締めくくりました。

 スミ夫人が生前かねがね「お父さんが最後まで過ごしたうちなので残してあげたいね。」と話されていた。その言葉をたよりに長男ご夫妻は、現在も在りし日が蘇る佇まいを大切にしながら暮らしている。日本人初のノーベル賞受賞という研究業績や平和活動など湯川秀樹の多彩な足跡を伝える場として、また晩年の住まいと暮らしを伺い知れる場として、湯川旧宅は、かけがえのない貴重な文化所産である。スミ夫人はじめご家族の想いを受け継ぎながら、豊かな自然と文化を伝える下鴨の地で、保存・活用されることが望まれる。

 湯川旧宅は、湯川秀樹が心癒された『終の住処』であると共に、昭和初期、戦前の良い時代の料理屋の居宅として、数寄屋風なところも垣間見える近代和風住宅から、進駐軍接収住宅、帰休兵専用ホテルとして大胆な改変された跡なども残る昭和史を語る貴重な住宅遺産です。

【参考文献】

永松尚 一般社団法人京都府建築士会『京都だより』2019.11月
2012年度『京都を彩る建物と庭園』の認定候補建物調査報告書

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