湯川余話第二回
10ヶ所以上の住まいを遍歴
佐藤文隆(さとう ふみたか)
京都大学名誉教授
本会の目的が湯川博士の旧居に関連したことなので、この連載では生涯にわたる博士のお住まいに注目して、その時々での公私に亘る背景や時代にも触れていきたいと思っています。この「秀樹さんのお住まい」シリーズを基本に、時々、前回のような私の個人的な体験記を折り込んで連載を進める予定です。博士は姓が小川から湯川に変わった経過もあるので「秀樹さん」と呼んでいきたいと思います。
さて今回は「秀樹さんのお住まい」シリーズの初めとして全体の見取り図を描いておきます。ネット時代だけあってGoogleの検索で「湯川秀樹 地図」と打ち込むと、Googleマップ上に秀樹さんのゆかりの場所を表示した「湯川秀樹の生い立ちマップ」という画面に出会った。秀樹さんの自伝『旅人』の記述を参考にして、Googleマップのある利用者が作成したもののようである。このGoogle マップには京都市内の住まいと縁りの地、それに西宮市の住まい、大阪市内の住まいなどが表示されている。
住まいとしては京都市内では沢文旅館(1908)、柳風呂町の円覚寺、染殿町の家(1909)、東桜町の家(1913)、[不明(1926)]、塔の段毘沙門町の家(1929)、大阪内淡路町の家(1932)、西宮市苦楽園の家(1933)、そして京都市下鴨の神殿町の家(1943)と泉川町の家(1957)である。カッコの数字は転入時の西暦年を表す。[不明]の時期には下鴨と塔ノ段での別の家とか入る。
秀樹さんは1907年東京の生まれだが父の小川琢治が京大教授となって翌年に京都市に引越して仮住まい(沢文旅館、柳風呂町の円覚寺)を経て、その翌年から小川家は市内に居を構えている。染殿町と東桜町の家は借家で、塔の段の家は琢治の定年間際に手にしたものである。秀樹は小学校から大学まで、自宅から徒歩で通学していた。
秀樹さんは25歳の時に湯川家に婿入りして、湯川玄洋の実家の内淡路町の家に移り、次に新婚夫婦の為に実家が購入した苦楽園の新居に引っ越す。中間子論はこの時期に生まれる。当初、秀樹は大阪大学に勤めていたが、1939年に京大教授になり、1943年からは京都市内の住まいとなる。何れも中古の住宅を購入したものである。
先のGoogleマップに示された京都市内の一部を図に示しました。黄色い家形の印が住まいの大雑把な位置を表している。上から下に、神殿町、泉川町、塔ノ段、円覚寺、染殿町、東桜町の家の位置である。この「湯川秀樹の生い立ちマップ」では苦楽園から神殿町に引っ越したとあるがこれは誤りである。1941年にJR甲子園口駅近くの借家に移り住んだ後に、1943年に京都市内に引っ越したというのが正解である。
というわけで関西での染殿町、東桜町、塔ノ段、内淡路町、苦楽園、甲子園口、神殿町、泉川町に、秀樹さんが生まれた東京麻布の住まいと[不明]を加えると、全部で9ヶ所以上にもなる。ところがさらに神殿町時代のうち1948-1953年の間はアメリカ住まいであり、ノーベル賞はこの間の1949年10月である。ニュージャージー州プリンストンに1年、次にニューヨーク市内に4年住んでおる。といった具合に、秀樹さんのお住まいは10回以上も変わっており、覚えきれないほど多彩なものであることに気付かされます。
Googleマップ「湯川秀樹の生い立ちマップ」より転載