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湯川秀樹没後40年
ー市民の会への期待

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

​専門:宇宙物理、相対性理論、理論物理

1976年-1980年 京大基礎物理学研究所 第3代所長

​1993年-1995年 京都大学理学部長

 9月8日は湯川博士の命日で、この9月はお亡くなりになって40年目の節目の年に当たります。この時に博士が晩年過ごされた邸宅が京都大学のものとして活用されることになったと聞くことは大変素晴らしいニュースです。この実現に尽力された方々のご英断に敬意を表するものです。博士を敬愛するものの一人として深く感謝致しております。

 

 「それにつけても想い出されますのは湯川先生がノーベル賞を受けられた昭和24年の頃であります。私は尚、医学部の助教授でありましたが、戦後の窮乏のあけくれの中に疲れることのみ多い毎日を送っていましたが『1949年ノーベル物理学賞日本の湯川教授に』との新聞報道は同じく科学研究に携わる私共に衝撃的感動を与えました。その夕の帰途にみた時計塔の灯は吉田山を背景にくっきり浮かび上がってみえました。ひとり科学者のみでなく日本国民全体は自信喪失の首を初めて伸ばし、世界をかいま見る気持ちを味わったのでした。以来、この25年はそれを契機に日本人が窮乏のどん底から自ら努力で次第次第に自信をとりもどし国際社会に登場する四半世紀でありました」。

 これは1978年の基礎物理学研究所の25周年式典での岡本道雄総長の挨拶の一節ですが、湯川博士の受賞当時の状況を感動的に伝えております。特に「時計塔の灯は吉田山を背景に・・・・・」は京大人を泣かす名セリフです。

 

 このように湯川博士の受賞は戦後の物理学だけでなく、日本のサイエンスや大学の国際化などに多大な貢献をしました。近年のノーベル賞の日本人受賞のラッシュの原点にも湯川博士があったのです。

 

 しかし、博士の活動は研究や大学教育に閉じるものではありません。人々に学問の大切さを説き、和歌や書を嗜み、平和の尊さを訴え、京都の素晴らしさを語るなど、数々の足跡を残されました。「市民の会」がこうした博士の足跡を広く継承していくことに貢献されることを期待しております。

 

 筆者は今年前半にNPO「あいんしゅたいん」の企画で次のようにズーム講義5回を行いました。

佐藤文隆講義「湯川秀樹の世界」全5回各一時間

  1. 湯川秀樹の生涯 ―湯川邸を訪ねて

  2. 湯川と物理学 ―創造と展開

  3. 湯川の戦前戦後 ―戦争と核兵器

  4. 湯川の文化活動 ―科学と伝統

  5. 湯川の短歌、書、記念碑など ―世間と共感

 

概要

  1.  父小川琢治の転任により京都市内で成長し、そのまま市内の第三高等学校、京都大において物理学のみちにすすみ、27歳で発表した中間子論により、戦後まもない1949年に日本人初のノーベル賞に輝いた。その衝撃的感動は全国民のものであり、湯川は国民の負託に応え、学術、文化、平和の国民的課題で積極的に行動し、多彩な人生をえがいた。湯川の生涯を日本の時代の流れの中でみるとともに、そのゆかりの地についても触れる。

  2.   ニュートン以来の物理学の革新といえる量子力学の誕生に大学時代に遭遇し、同級生の朝永振一郎とともにこれを自学自習し素粒子物理学という新分野を創造した。湯川の植えたその芽は日本の研究を世界最前線に押し上げたのみならず、基礎物理学研究所所長として量子力学の宇宙物理学や生物物理学への展開にも注力して幅広い分野に貢献した。X線の発見から現在の最前線の研究の中に湯川の創造を位置づける。

  3.  自由な大正時代に青少年時代をすごした湯川は、軍国主義の昭和十年代に著名な学者となり、苦悩の中におかれた。末の弟も徴兵で戦死した。戦後すぐの1948年、原爆の父オッペンハイマーの招待で訪米し、その後足掛け5年にわたり家族で米国に滞在した。帰国後の1954年ビキニ環礁での水爆実験で日本漁船が被曝したのを期に大量の核兵器の存在が多くの人々のまえに明らかになった。湯川はこれを人類の危機と受け止めてその廃棄運動にとりくんだ。

  4.  湯川は幼児期には祖父による漢学の素読の薫陶をうけ、また少年期には文芸ものに読み耽けるという文系人間だった。戦後、科学が輝いて見えた時期、世界的科学者としての湯川と小林秀雄のような碩学をはじめとする学者・作家などとの対談が企画され、また後半生には司馬遼太郎、梅棹忠夫、梅原 猛などの新進とも積極的に交流した。こうした闊達な討論のなかに多くの国民は学問の真髄を享受した。そのテーマは近代科学から日本の古典にもおよび、十数冊の著作集が発行されるほどの多くの文章を残した。

  5.  湯川は若い時から短歌をたしなみ、470首以上の歌を発表している。戦後の湯川は講演要請に応じて各地を旅して、ひとびとに多くの感銘を与えるとともに要請に応じて揮毫をのこしている。また広島の平和公園はじめ各所に湯川の歌や揮毫の石碑が残されている。多くの国民の共感を得て将来は湯川が紙幣の肖像として登場することをねがっている。

 

 これからは博士の多面的な活動を記憶していくことが大切だと思っています。最近、博士の文化活動について記した文章(『現代思想』(青土社)2021年9月号掲載)を書きましたので以下に添付いたします。博士の足跡に理解を深める一助にして頂きたいと思います。

​(2021年8月31日記)

 

 

科学者の生きがいとは  湯川秀樹没後40年

定年後の夢

 「前々から念願であった、三浦梅園の旧居訪問を実現しようと思った。大分から別府、杵築を経て、国東半島の東端に位置する安岐町にいたるまでの間は、別府湾の見えかくれする舗装道路で、車はひた走る。そこから先は安岐川に沿った細い道に変る。降りやまぬ雨にぬかるむ道を、車は幾曲りする。あまり険しくない山並みを背景とする田園風景がどこまでも続く。人家はまばらである。道は緩やかな登り坂になっている。目指す方には梅園が終生、愛してやまなかった両子山があるはずだが、雨に煙って姿は見えない。小高いところに集落が見えだす。車をおりて田圃道を少し歩くと、石段がある。数段の石を踏みのぼって、平らな前庭に出た私たちは、茅葺の大きな平家に向かい立っていた」[1][2]。この文章は心躍らしてあこがれの場所に近づく高揚感を滑らかに表現している。多感で一途な若人の心模様をあけっぴろげに表現した文章と受けとられるかも知れないが、じつは、還暦も過ぎまもなく京都大学の定年を迎えようとする湯川秀樹の文章である。この訪問のこの後については他に記したことがある[3]

 この「高揚感」は「梅園」に特化したものというよりは「定年後」に訪れる自由への開放感を夢見ている高揚感なのではないかと思われる。同学年の朝永振一郎のように大きな公職にも就かずに自由に生きてきた湯川にとって、大学の定年などは人生の一大転換点ではないという見方もあろう。私はこれと違って、湯川は定年を一大転換点にしたかったのだと思う。そしてそのことは単に「長寿社会での学者の定年後の過ごし方」といったハウツーもの的な関心を超えた問題を科学者に提起しているように思える。それは大きくいえば、二十世紀の歴史を経て変わりつつある「科学の大義」と「個人の生きがい」のせめぎ合いとも言える。「科学の大義」に賭けるのが「個人の生きがい」であった科学の揺籃期から大エスタブリッシュの「職業としての科学」に成長した二十一世紀の科学をさらに変容させていくモーメントは何かという課題に関わると思うのであるが、その考察の材料として湯川の定年前後の状況を見ておこう。

 

湯川秀樹没後40年

 この2021年9月は湯川秀樹没後40周年に当たる。1970年3月に京大を定年になり1981年9月8日に亡くなられた。この間10年といえば長そうだが現実には約5年で自由な生活は病気に奪われ、「定年後の夢」は完熟せず途中で潰えたといえる。

 その「定年後の夢」については後述するとして、「没後40年」に因んで当時の様子を記しておく。1970年の退官後も湯川は京都大学基礎物理学研究所の所長室をそのまま使用して、運転手付きの研究所の車で往復していた。退官後は来客にもバライエテーがまし、「定年後の夢」を着々として実行されているように見受けられた。だから病変は全く不意にやってきた感じであった。本人は体の不調に気付きながらも、講演や対談の先々の予定表が埋まっているから、他人を巻き込む事態にならないように、「一時の不調」と自分を納得させて病院行きを先延ばししていたのかも知れない。1975年の5月半ばに初めて医者に行き6月2日に前立腺がんの手術を受けることなった。家族以外のものが病変を知ったのは手術日が決まった頃であった。当時も今も、この手術は深刻な事態とは受け取られていないと思うが、湯川の場合の術後は予想外の深刻な事態だったようで、体調に浮き沈みはあったが、夢をエンジョイするといった状態に戻ることはついぞなかった[4]

 術後間もない8月には提唱者であった核兵器廃絶のパグワッシュ京都会議に車椅子で出席し演説をした。NHKはこの様子とスミ夫人共々の世界連邦の実現を求める平和運動なども含めて『核、ガン、平和』なるテレビ番組を作成して翌年1月に放映した。多くの国民が病変した湯川に出会うこととなった。

 

逝去と葬儀

 体調が万全ではなかったが「古希の祝賀会(1977年)」や「基礎研25周年祝賀会(1978年)」などには周囲を気遣って出席され、また1946年に創設した英文論文誌『プログレス(Progress of Theoretical Physics)』の月に2回ぐらい開かれる編集委員会には可能な限り出席していた。論文の受け取りの葉書に編集長である湯川が万年筆で署名する慣習になっていた。研究者の駆け出しの頃、私も湯川署名の葉書を受け取って誇らしく感じたものである。体調が悪い時はこの署名を終えた後は途中から部屋に戻って横になる時もあった。

 この編集委員会出席は1981年の8月17日まで続いた。そして次の9月7日の編集員会は欠席された。8月23日に散歩中に転んで怪我をしてそれから風邪をひいて体調を崩しているので入院の予定であるとお家から連絡があった。前年の初めにも肺炎で入院し一時期危篤状態になったこともあり不安が走った。そして翌9月8日の昼過ぎ突然急性心不全で病院に運ばれそのまま永眠されたのである。まもなく研究所内の電話があちこちで鳴り出した。外線に沢山入った電話を、京大の交換手さんが次々と研究所の別の内線に繋いだのだろう。湯川の存在の大きさを確かめるように、しばらく鳴りひびく響めきを聴いていたものである。

 中学以来の友人で湯川記念財団の理事長であった湯浅祐一(ユアサ電池会長)が葬儀委員長となり、19日に知恩院で葬儀は行われた。雨の中であったが参会者は約1500人であった。1979年の朝永の青山斎場での葬儀には大平総理大臣の姿もあったが、在京でないためか湯川の葬儀には大物政治家の出席はなかった。10月31日、理学部と基研の共催で「追悼講演会」と「パネル展示会」が行われた。私は講演会の司会役だった。追悼会の少し前の10月11日、ホイラー夫妻がアジア旅行に合わせて湯川弔問のために京都に立ち寄られた。仏壇にお参りするため私は湯川家に二人を案内した[5][6]

 

1969年大学紛争の頃

 湯川没後40年ということで1981年に話が飛んだが、冒頭の梅園旧居訪問のあたりの1969年に戻ると、この時期は大学紛争の時期であることに気づく。この大波は勿論京大でも例外でなく、1969年3月に本部構内でのゲバ棒での大規模な衝突があり沈静化したようだったが、新学期から学部ごとにストライキ決議を上げて次々と授業粉砕が進んだ。湯川が所長の基礎物理学研究所は本部構内の北の北白川構内の東北端にあり、学生の通りも少ない静閑な場所で、一見無風地帯であった。ところが道ひとつ隔てた農学部は過激派の強いところで封鎖をやっており、この連中が基研の玄関横の壁面に「専門バカの巣」という等身大の大きさの落書きをした。湯川記念館とも称されるこの白亜の建物もしばらくは無様な姿だった。

 当時、大学の評議会は平時には諸規則の改定を承認する形式的な委員会であるが紛争時には大学執行部として対応に追われた。研究所長は評議員の一員であったから、学生問題に無縁でも所長は「紛争」に巻き込まれた。ところが基研所長は例外的に評議会のメンバーでなかった。基研は大学共同利用研究所という新制度発足時の第一号である。当時、京大の議論では「他大学の構成員が京大の研究所の運営に関わるのは大学の自治を犯す」という議論もあった。またこの制度を作り上げる大衆的エネルギー源でもあった素粒子論グループにも「基研は京大に所属するが京大の構成員のものでない」という意識が強かった。こういう中、創設時に「基研所長は評議会に出ない」となった。ただその後の共同利用研ではどこでも所長は初めから評議会に入っており、基研所長が言い出せば評議会のメンバーになったであろうが、湯川はこの例外措置を誇らしく語って変えることはなかった。これで紛争時に形式的にも関わらされる場面が皆無だったのである。

 

基礎物理学研究所15周年

 私の想像では湯川は研究所へのご奉公は1968年の研究所15周年記念シンポジュームでお納めとしたのだと思う。20周年にすると定年後なので中途半端な15年なのだが、10月28−31日にわたって京都会館で、400人もの出席をえて、基研の研究活動の総決算を行なった。式典に続く各分野の報告・討論が大半だが、最後の日の一時から5時半までの長時間「基礎研の役割・今後のあり方」のセッションが設けられた。一般的な「今後」ではなく「湯川なき後の」という意味である。基研の最大の特徴は「湯川研究所」であることである。「カリスマ的な人物の研究所」という形は世界的にも例があり、湯川はまさにその役目を15年間果たしてきた。日本ではこの間に原子核研究所や物性研究所という共同利用研究所が他にも創設され、その理論部門だけでも基研より大きいという研究条件の前進があった。共同利用研の先鞭をつけた功績は大きいがそれだけでは「今後」は築けない。

大学の定年と関係なく湯川は所長を続ければいい、などという極論も討論の中にはあったが、「湯川なき後の湯川研究所」という大きな宿題を関係者に認識させてこの会は終わった。ところが関係者は皆この頃から全国各地で「大学紛争」に振り回されて「宿題」どころではなくなった。世間的にも戦後史を彩ったあの湯川の退官だったが、紛争の喧騒の中でひっそりと迎えた。

 

定年後プロジェクト

 定年後に理論物理全般の進展を話題にする会合として設定したのが「渾沌会」である。1960年代から湯川は色紙に「知魚楽」と書くなど『荘子』によく触れていたが、「渾沌」もそうである。世話人が話題提供者をアレンジして、湯川の出てくる日に開かれた。1971−78年の間に59回開かれたが、私も7回喋っている。

退官を待っていたかのように始まったのが湯川監修の岩波講座『現代物理学の基礎』全11巻である[7]。各巻の編者を湯川が指名し、どの巻でも編者・執筆者と湯川とのミーテイングがもたれた。本人は『古典物理学』と『量子力学』の一部を執筆した。

退官は生前における一つの節目であり、『湯川秀樹自選集』(I-V)が刊行された[8]。また若い時から折々につくってきた和歌を編集した歌集『深山木』を刊行した[9]。ほぼ年代順に14章に分けて473首が載せられている。歌集のタイトルは

深山木の暗きにあれど指す方は遠ほの白しこれやわが道

からきており、1948年の訪米の大きな期待と不安を込めた人生の大転換点を歌ったものだ。私の記憶ではこの歌集は「退官の会」出席者に配布された(当日であったか、事後かは定かでない)。湯川は、この後、これら短歌の一部66首を毛筆で自書しており、それらは『蝉声集』として刊行された[10]。タイトルは

東京の宿にきて先づなつかしむ蝉の声する庭の木立を

からとられており、これはノーベル物理学賞受賞の翌年夏に初めて日本に帰った折の歌である。

 

『創造の世界』と天才論

 しかし、湯川にとっての文化的活動は退官が収穫期というよりは新たな出発点でもあった。すぐに『朝日ゼミナール』で三回の「私の生きがい論」の講演に挑んだ[11]

 「誌上シンポジューム」を売り物にした季刊雑誌『創造の世界』の刊行もある。編集後記にも「湯川先生がご退官になり、いろいろご相談に乗っていただけたこと」とあり、小学館が目指す総合雑誌の創刊も湯川の退官を期に動き出したのである。市川亀久彌、梅原猛らがプロモーターであった。季刊8号には湯川に誘われて、私も「誌上シンポジューム」の話題提供者になっている[12]。この季刊誌上で湯川が連載ものとして始めたのが天才論である。弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ。ニュートン、アインシュタイン、宗達・光琳、世阿弥、荘子、ウイーナー、エジソンを取り上げたところで病気のために中断した[13]

 

テレビ対談番組に挑戦

 定年後を待って持ち込まれた企画にテレビ対談番組がある。「この書物(『人間の発見』)の本文は12回にわたるテレビ対談あるいは鼎談に、ごく僅かな加筆訂正をしたものである。今までに普通の意味での対談などを集めて本にするという経験を、私はすでに何度も重ねてきた。たとえば近いところで対談集「学問の世界」「半日閑談集」「科学と人間の行方」などがある。これらの中に収録された対談の中で、最近10年ほどの間に行われた分だけを数えてみても三十回に近い、今度のこの本の内容は、それらとは大分ちがっている。もちろん私にもテレビに出た経験は何度もある。しかし、それらとはことかわり、NHKテレビの教養特集という1時間番組の司会役をつとめることになったのである。ことのおこりはプロデューサーの阿満利麿氏から「毎月一回一年間、「人間の発見」という全体のテーマで司会者も兼ねて出演して頂いただけないか。ただし毎回の話題や話し相手は先生がご自由にお選び下さって結構です」という申し出であった。それはもう今から5年ほど前になる。私は当時、京都大学を定年でやめたところだったので、時間的にも気持ちの上でも大分ゆとりができていた。それで気安く引き受けたわけである」[14]

 当時のテレビの編集技術上の制約で、生放送であるから大変であった。「いざ司会をしてみると、いろいろ予想外の苦労があることが、すぐわかった。何よりも時間が気になる。長年の間、大学で講義をしたり、いろいろな機会に講演をしたりしているうちに、おのずから時間感覚が身についていた。「定刻の5分前ぐらいになったな」というくらいはカンでわかるようになっていた。しかしテレビのように1分とか30秒とか言う短い時間単位が問題になると、話はちがってくる。自分で経験してみて初めてテレビ関係者の苦労、特に時間的空白を恐れる気持ちがよくわかった。その次には毎回、適当な話題と話し相手を見つけることが案外、簡単でないことがわかった。あとになるほど、だんだん手詰りを感じるようになってきた」[14]

 それにしても相手から話題を引き出す司会というよりは、自分が話題を準備して行って相手に問いかける内容になっている[15]。終わりの2回は市川の司会で湯川から聞き出す形にした。それにしてもこの歳で新たな身体芸に挑戦しているのは天晴れである。1973年、江崎玲於奈のノーベル物理学賞を機にした朝永を入れた3人の講演会の折に「一日生きることは、一歩進むことでありたい」という色紙の警句が初登場する。もう後期高齢者であるが、あくまでも前向きであった。

 

「和歌について」

 多分、まとまった文章としてはこれが最後のものではないかと思われるものは『禅』という雑誌に掲載された。「短歌というものの専門家の間では、近代化、現代感覚ということがしきりに言われており、それも結構ですけれども、私の知的関心、知的活動全体の中では、近代的なものには別に事欠かないわけで、さまざまなジャンルの近代的な文学があるし、特に私は平生、現代物理学の中でも最も先端的なことをやっているので精神の安息のためにはむしろ、なるべく物理学との距離が大きいものの方がいいんです。年がら年じゅう物理のことばかり考えて、それで一生終わるというのは本当に人間らしい生き方ではないと私は思っているのです」[16]

 ニュートンも錬金術や聖書の年代学に凝ったり、年がら年じゅう物理や数学をやっていたわけではない。怪物ではなくて、人間らしい人間であった。「私についても、願わくは私を怪物扱いしていただきたくない、あるいは物理だけを研究する機械のように思っていただきたくないのです。普通の人間が、たまたま物理学のような学問を好きでやっているということを知っていただきたいのです。世の中には、一生の間、朝から晩まで一つの学問をやっているという人があるかないか知りませんが、もしあったとしたら、やはりあまり幸福でない人だろうと思いますね。それで自分は幸せと思えたら、それでいいかも知れませんけれども、多分そういう人はないと思います」[16]

 「この年まで生きていると、人間というものがわかってきたが、単に一面的な人間など一人もいないのです。誰でもどこかおかしい。ただ、おかしさのあらわれ方があまりよく見えぬか、よく見えるところへあらわれるかの違いだと思います。物理学者である私が短歌などをつくって、皆さんに和歌の話をするのはおかしいと、皆さんお思いになるかもしれません。しかし、おかしいと思われるようなものを持っているから、私はあたりまえの人間なんです。そういうことが一つもなかったら、私は非常に不思議な人間です。存在し得ない、実在感のない人間になってしまうのではないでしょうか」[16]

 

背伸びする国民の支え

 病変のため5年間ほどに短縮された湯川の「定年後の夢」の旺盛な活動ぶりを見てきた。湯川も朝永も十数巻にも及ぶ著作集が出版されている[17]。二人のこのような多くの書き物は、勿論、社会的時代的ニーズの上に実現したものである。インターネット時代の中で薄れつつある読書教養文化がまだ濃厚に存在した時代が背景にある。それにしても、基礎科学の研究者がこれだけの多方面の文化的活動の集積を見ることになった理由の一つは湯川が非常に若い時期に専門分野で世界的に評価されたことがある。三十二歳で京都大学教授、三十五歳で文化勲章、四十二歳でノーベル賞、といった年齢は、近年の日本のノーベル賞受賞研究者の年齢と比較するとその差が歴然としている。しかもその発言の内容は自分の成功談や人生訓の開示にと留まっておらず、ハードな科学の異世界に片足をおいた人間が日本や世界の文化について語る新鮮さが独自の領域を読書界に拓き、多くの文章や企画の依頼があったのであろう。近年の科学者を見る目だと「西行に凝ることが物理学にどう還元される」などという興味に脱するのと違った芳醇な文化を求める時代に支えられていたと言える。湯川の文化界での活躍もやや背伸びした多くの国民とともにあったのである。

 

職業と人生

 長寿社会となった最近では、たとい終身雇用の正規社員でも、長い退職後の人生をいかに構築するかは重要な課題になっている。「団塊の世代」の大量定年退職後では既定の心得るべき課題になっている。日本経済が上向きであったこの世代は、学校を出て会社の中で必死に努力し、自分の努力と会社の成長も重なって、まさに、単なる食うための労働ではなく、生きがいそのものの充実感を味わった人も多かった。だから定年後は余録で十分なのだが、なかなか終わりの幕が下りてこないのに当惑する事態が起こっている。

 そんな20世紀型会社人間からみると、学者は、雇用の有無と関係なく、一生研究者として打ちこむ大義があるから「現役」と「定年後」の段差がない職業に見えるかもしれない。学術情報のネット化などで段差を小さくする手段は整備されつつあるが、では「段差」がないのが良いのかといえば自明ではない。湯川は積極的に「定年後」を新たに創造しようとしたのである。

 私は湯川のこの物語を、長寿社会の課題としてでなく、科学をめぐる論議に戻したいのである。「西洋科学発祥の三位一体」では本来独立の哲学、方法、理念、思想、倫理、エートスなどが一つにパッケージされて科学に結びつけられ、その抱き合わせ販売の成功もあって世界で規模拡大をした。しかし異なった文化の履歴を持つ社会での科学の今後のあり方は、科学と抱き合わせされるものは西洋科学発祥のものと異なるのかもしれない[18]。漠然とではあるが私の未来に向けた「科学論」はこうした可能性を追求している。巨大なエンタープライズと化した各地の制度科学と伝統文化を引きずる社会との関わり方が課題である。それは科学者の威信と信用の担保に関わる課題である。

【注】

[1]湯川秀樹「三浦梅園の旧居を訪れて」、『湯川秀樹著作集』第6巻134、岩波書店、1989年。

[2]細川光洋選『湯川秀樹歌文集』講談社文芸文庫、2016年。

[3]佐藤文隆「三浦梅園と湯川秀樹」、『窮理』窮理舎、2015年11月。

[4]病変の事情については、湯川スミ『苦楽の園』講談社1976年に詳しい。

[5]前掲書[4]には次のような一節がある:1948年プリンストン高等研究所の住宅にはいったが、秀樹は研究所に早速出て行って、一人残されたスミは途方にくれていた。すると「私は、あなたのご主人と以前からの友達のプリンストン大学のウイラー教授の家内である」と上品な夫人が現れて銀行や買い物に連れて行ってくれた。このホイラー(ウイラー)教授夫妻が弔問に訪れたのである。ホイラーは1960年代にはブラックホールの研究で有名になった。

[6]佐藤文隆『佐藤文隆先生の量子論』、第5章「ジョン・ホイラーと量子力学」、講談社ブルーバックス、2017年。

[7]『古典物理学』(1、2)、『量子力学』(1、2)、『統計力学』、『物性1(物質の構造と性質)』、『物性2(素励起の物理)』、『生命の物理』、『原子核論』、『素粒子論』、『宇宙物理学』の11巻。

[8]『湯川秀樹自選集』(I-V)朝日新聞社、1970年。

[9] 『深山木』については『湯川秀樹著作集』第7巻、あるいは前掲書[2]。

[10]湯川春洋・小川環樹編『蝉声集』、1989年。 

[11]湯川秀樹『この地球に生れあわせて』第1部「私の生きがい論」講談社文庫、1975年。 これは週刊誌『朝日ゼミナール』企画での講演が元になっている。この「生きがい論」ゼミでの他の論者には梅原猛(人間と生きがい)、清水幾太郎(生きがいとは何か)、司馬遼太郎(歴史のなかの生きがい)、梅棹忠夫(未来社会と生きがい)などがいる。

[12] 「現代の宇宙論」、『創造の世界』第8号(1972年10月)、出席者は佐藤、湯川、市川、寺本英、加藤進、梅原猛、大谷浩。

[13]湯川秀樹『天才の世界』(正・続・続々)小学館創造選書、1979年。「知的生き方文庫」(三笠書房)に再販。

[14]『湯川秀樹対談集III 人間の発見』(講談社文庫、1981年)の「あとがき」は1975年11月であり、病変で遅れたと記している。

[15]北村四郎「植物的世界観」、渡辺 格「分割の果て」、宮地伝三郎福永光司「荘子の世界」、作田啓一・多田道太郎「休みの思想」、なだいなだ「おそれ」、司馬遼太郎・上田正昭「歴史の中の人間」、源 豊宗・吉田光邦「自然の中の人間」、五来重「西行の世界」、水上 勉「情」、庄野英二・森本哲郎「メルヘンの世界」、市川亀久弥「生きがい」、「心の遍歴」。

[16]湯川秀樹「和歌について」『湯川秀樹著作集』第7巻、1989年。前掲書[2]にも再掲。この文章は最初は『禅』という雑誌の252号(1976年)に掲載。

[17]『湯川秀樹著作集』全10巻、別巻1、岩波書店、『朝永振一郎著作集』全12巻、別巻3、みすず書房。

[18]佐藤文隆『「メカニクス」の科学論』第11章、2020年。

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