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湯川邸を前に
湯川秀樹博士を思う

尾池和夫(おいけ かずお)

静岡県立大学学長

第24代京都大学総長

京都大学名誉教授

​専門:地球科学(地震学)

1997年-1999年 京都大学大学院理学研究科長・理学部長

​2003年-2008年 京都大学総長

 京都大学に私が入学したのは1954年4月です。京都大学理学部に入学する多くの人たちが湯川秀樹博士に憧れて入ってくる時代でした。私自身の入学の動機は、核融合実験をやりたいということでしたが、さまざまな分野に触れていく中で2年後には変化していきました。私は生物物理学科の創設運動に参加しながら、地球物理学科に入るという変化でした。このように、入学してから変化することができるというのが、この京都大学理学部の最大の特長でした。

 実は生物物理学科の創設運動に学生たちが取り組んだのも、湯川秀樹博士や渡辺格博士の学問の将来を論じる内容に影響されていました。湯川博士の講義を湯川記念館で聞きましたが、よく知られているとおり小さな声で、なかなか聞き取れませんでした。まず「浦島太郎の話が物理学で説明できるか」というようなことから入る物理学を一所懸命聞いていました。聞こえなくても皆、懸命に聞いていました。たまには黒板に向かって考え込んでしまう博士を、私たちはじっと見つめていました。

 

 地球科学では、私は湯川博士の父上である小川琢治に少し近い分野で研究していたことになりますが、京都大学に長い間いて、文化の側面で湯川博士の影響を受けていました。さまざまな文章を通じてです。

 そして40年以上経過して2005年です。湯川記念館の前に湯川像があります。そこで私は湯川スミさんに一つのメダルをお渡ししました。世界の人びとにユネスコの目標や事業方針への理解を深めてもらうために、ユネスコは切手やメダルを発行します。日本関連のメダルは2つで、人物は湯川秀樹博士、もう一つは世界遺産で奈良のメダルです。

 湯川秀樹博士のメダルは、京都大学総長として私がユネスコから預かりました。2005年5月17日、それを湯川スミさんにお渡ししたのです。物理学者では、アインシュタイン博士、ニールス・ボーア博士についで作成されたメダルです。

 このメダルの湯川博士を描いたのが平山郁夫さんです。湯川スミさんが、メダルをじっと見つめたあと「秀樹さんにそっくり」とつぶやいて、とてもうれしそうな顔を見せました。そのことを私は平山さんに伝えました。そのときの会話が忘れられません。平山さんはやさしい笑顔を浮かべながら、「あなたね、肖像が似てなかったら意味がないでしょう」と言われました。文字にするとあたり前のことだと思いますが、私はそのとき、たいへん感動を覚えました。美術を深く追求している文字通りの大家の、あたり前のひと言の中にたいへんな重みがあることを発見したのです。

 

 湯川さんは自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記しています。母方の祖父駒橘は元紀州藩の藩士、湯川家自体が先祖代々和歌山県出身で、「和歌山出身」と紹介されることがあっても、ご本人は京都市出身と称しておられました。

 5歳から6歳の頃、祖父駒橘より漢籍の素読を習ったと聞きます。駒橘は漢学の素養が豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドン・タイムズ』を購読し続けたという人物です。同じく自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である」と記しておられます。

 

 先日、私は玉城記念講演会の記録のために文章を書きました。物理学の大変革であった量子力学の誕生期に京都大学理学部を卒業(1929年)した湯川秀樹と朝永振一郎は、力学講座の教授である玉城嘉十郎研究室の門をたたいたのです。玉城は「自分は量子力学を専門としていない」といいつつその基礎となる解析力学のゼミをやってくれたといいます。お二人は、1929年に提出されたばかりの場の量子論を自学自習し、湯川は中間子論、朝永は量子電磁気学で世界に躍り出たのです。

 

 小沼通二(みちじ)さんの「湯川秀樹日記、昭和九年:中間子論への道」という本から、湯川秀樹博士の若い頃を学びました。日記はご家族の了解のもとに公開された貴重な資料です。湯川さんは27歳の時、1934年11月17日に東京大学の構内で開催された数学物理学会で「核力の中間子論」という論文を発表しました。その論文は後に1949年のノーベル物理学賞の受賞につながるものでした。その発表の前日、16日の午前に湯川さんは理研に行き、午後は銀座へ移動しました。そのときの日記を引用します。「歌舞伎座で盛衰記(五時ー五時五十分、四十銭)。竹葉銀座本店で夕食。勧進帳(六時五十分ー八時、四十五銭)を見てホテルに帰る」とありました。次の日、論文を発表し、「朝永、小林両君に新橋しほ屋の金ぷらを御馳走の筈が馳走になり、七時十分発の急行に乗る。両君見送」と日記にあります。

 私も歌舞伎座に行きました。休憩で竹葉亭の鰻を食べに行って続きを見て帰りました。研究者が精神的に豊かな生活を送ることの重要性を、この例で京都大学の学生たちにも語りました。また、椿油の天麩羅である「金ぷら」も食べてみました。湯川の時代から90年、たいへん忙しい時代になっていますが、大脳が働くためには、適当な文化的刺激を脳に与え、また、脳に栄養を補給するため美味しい物を食べるということが、やはり重要だと、私は思いながら湯川博士を思い出しています。

 

 京都大学は、2006年度を湯川、朝永両博士の「生誕百年の記念年度」と定めて、二人を育んだ大学として両博士を顕彰するとともに、国立科学博物館での「湯川・朝永生誕百年記念展」など、いろいろな記念事業を行ないました。「ラッセル・アインシュタイン宣言」をもとにカナダで開かれた「パグウォッシュ会議」に両博士は参加し、1962年の第1回科学者京都会議を開催して平和運動を推進しました。物理学の功績とともにお二人の平和運動への貢献を私は讃えたいと思っています。

 日本学術会議の外部評価の座長として、私はお二人の時代を重要視しました。原子核の平和利用を提言した日本学術会議が、現在の原子力の問題を分野を超えて議論することが必要であると申し上げました。

 

 今回、「湯川秀樹旧宅の保存と活用を願う市民の会」によって、日本で最初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹さんが最期まで住み続け、学術研究活動のみならず、非核平和活動、文化活動の場として国内外の多くの人々と交流された場所である旧宅および庭園と遺品類を保存し、それらを活用することが計画され、実行されることになりました。

 市民の憩いと学習の場所であるとともに、研究者を志す若者たちが、この場所で湯川博士の思想の学んでほしいと、私は思います。また、京都大学の教職員の皆さんが市民とともに、大学の基本理念にある地球社会の調和ある共存の考えのもと、湯川博士の思想を伝えるこの旧邸の保存活動を分野を超えて支援し、多くの学生たちにその歴史を伝える努力を続けることを、私はこころから願っています。

                          (2021年9月8日記)