湯川余話第十一回
大阪、西宮へ
お住まいシリーズ9
佐藤文隆(さとう ふみたか)
京都大学名誉教授
1931年春、秀樹さんは京大講師に任じられて量子力学の講義を始め、翌年には新設の大阪大学の講師に任じられて、大阪大学理学部物理学科の菊池正士教授の研究室の一員となった。
1931年秋に京大事務局長から大阪の開業医湯川玄洋の三女スミ[註]との養子縁組の話があり、お見合いの後すぐに婚約、翌1932年4月に結婚した。秀樹さんはひとまず大阪市東区内淡路町の湯川家に移り住んだ。
「湯川の家は、毎年夏二カ月ほど海岸や山へ避暑に出かけた。昭和7年の夏は、阪急の夙川の山の手の苦楽園だった。秀樹は「苦楽園が好きだ。高いところはいいのだよ。アインシュタイン博士が相対性原理を考えたのは、高いところだったんだ」というので、父が秀樹の好きなように設計させて別荘を建てた。海抜百五十メートル、南に向いた山の中腹なので、西宮から大阪をひと目に見渡す高地である。夜になると、阪急、阪神、国鉄の電車や汽車の光が行き交い、えもいわれぬ景色で、夕食後のひととき、私たちは家族みんなで窓ぎわに並んでみとれたものである」(湯川スミ「苦楽園の頃」、『湯川秀樹著作集2』(岩波書店)月報3)。
ここは「関西の軽井沢」と称して開発された場所だった。こうして秀樹・スミの二人は 1933年夏に、義父母の玄洋・ミチと一緒に、この新築の家に引っ越した。ここに和装の秀樹ら四人が写っている写真がある。中間子論文公表は1935年初めだが評価が出るのは1937年秋以後なので、玄洋は義理の息子の大活躍を見ずに1935年夏に他界した。
苦楽園に住んだ1933−40年は秀樹さんの人生の大転換期となった。1937年秋に中間子質量の新素粒子が大気宇宙線の中に発見されたのである。この外電によって、ユカワの名は一躍世界的に有名になり、1938年以後には、国内でも種々の受賞が続くなど、学界での評価が高まった。そこに、まったく偶然だが出身研究室の玉城嘉十郎教授が急逝したため、秀樹さんは1939年春に32歳の若さで京大教授に任じられた。
1938年頃、湯川の名は社会的にも広く知られるようになった。「私は、秀樹が論文をつくったのが湯川姓になってからなので、自然「湯川粒子」という名がついたが、秀樹を産んだ小川の母はどんな気持ちでいるだろうと心配になってきた。あやまりに行かなければいけないと思い、日曜日の家族四人で京都を訪れた。私が申しわけないと言うと、義母は、「いいえ、どこの名を出してくれても同じですよ。立派な論文ができて、よかったですね」とやさしくねぎらってくれた。私は心から義母を尊敬し、嬉しかった」(湯川スミ『苦楽の園』(講談社))。
さて、勤め先が急に阪大から京大に変わったことで、転居が迫られた。さすが阪急苦楽園から京都北白川に通勤するのは大変だった。そこで、まず西宮市の国鉄甲子園口駅近傍の借家に引っ越した。一気に京都に引っ越さなかったのは、子供が甲南学園の小学校に入ったからであろう。この小学校は西宮よりもさらに西の方である。また苦楽園の家を出るには実母ミチの面倒を兄に変わってもらう必要もあった。
こうして1940年初めから三年ほど、国鉄甲子園口から通勤しますが、この頃から戦時下で大学も様々な業務も課せられて教授業も忙しくなり、長距離通勤は難しくなり、1943年10月にようやく京都市左京区下鴨神殿町に住宅を購入して転居することになるのである。
[註]戸籍上の名は「澄子」であるが、ご自分では「スミ」でとうされたので、この連載ではそれに従う。ノーベル賞受賞時の報道には二つの名が混在するが、米国から帰国後はほぼ100%スミである。米滞在時にファーストネームで呼び合う習慣からきたと思っていたが、その前にも実母をミチ、自分をスミと読んでいた形跡もある。
写真 中間子50周年を記念する米国物理学会のPhysics Today誌に載った評伝のタイトルページの写真。