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湯川余話第四回
借家の家主はお公家さん
お住まいシリーズ3

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 京都に移って小一年の仮住まいののちに、一家は「寺町広小路上る染殿町の借家に移った。梨木神社の北である。お公家さんの住んでいた大きな家で、この家の庭にも、厚いこけがいっぱいに生えていた。家主のお公家さんは、六条さんという人だった」(『旅人』)。家は寺町通に面していて、向かいは清浄華院という浄土宗の本山であった。当時は狭い寺町通を狭軌の市電が走っていた。その後、市電は一筋東の河原町通に移るのであるが、当時の河原町通は寺町通よりもっと狭かった。

 この家は秀樹さんが学校に上る以前の時期であり、主に父方の祖母に市内の寺社に連れて行ってもらった記憶が語られている。この祖母はここで亡くなられた。

 

 次に引っ越した住まいは東桜町である。「荒神口を少し上がった、河原町に面して塀をめぐらした角屋敷であった。古びてはいるが広かった。父はこの時分から随分いろいろな種類の古書、新書を持っていたので、いつも蔵があり間数の多い家を選んだ。お寺のような門の屋根の上には桃の形をした瓦が載っていた。門の脇には供待がある。玄関の式台の左には大きな柊、右には竹が一叢、中庭には祠がある」(「少年の頃」『湯川秀樹著作集第7巻』)。大きな屋敷で母方の祖父母は離れで暮らしていた。

 

 「今度の家主もやはり豊岡さんという堂上華族で、ご自分は西隣のお屋敷に住んでおられた。お姿は見えないが、毎日きまってピーピーという単調な、いつもまったく同じ旋律がお隣の窓から響いてくる。笙の笛のお稽古である。子供心にも実に悠長なものだと感じた」。「家の前には久邇宮邸があり、その左手には府立医専があった。家の左隣は元三高校長だった折田彦市の家、西は家主の豊岡氏、その更に西には、博物館に勤めている小山氏、―それは石井柏亭氏の弟に当たる人だ。その向こうには商工大臣やった片岡直温氏が住んでいた。豊岡家の北の高倉子爵の家には美しい娘さんがいて、御大典の五節の舞姫に選ばれた」(『旅人』)。

 

 秀樹さんは子供時代の比較的長い期間をこの住まいで過ごした。小学校は前の家に近い京極小学校だった。新住所地からは越境入学だったらしいが、この小学校は名門中学の府立一中進学へのステップとされていたようだ。現在の近衛中学の位置にあった「一中」と「三高」には荒神橋を渡って通学した。小川家の男兄弟5人は皆このコースを歩み、秀樹さんの人間形成にも大きな影響を与えた。この住まいの時期にはまた小川家の人々も減っていった。母方の祖父母も没し、また長姉も次姉も嫁にいった。両方とも東京に出たが、次姉の方は夫が京大の勤めになって京都に戻った。長男は三高ののち東大に入り冶金学の東大教授として東京住まいになった。次男、三男、四男はいずれも京大に入り、3人揃って京大教授の時期もあった。次男、三男、五男はそれぞれ貝塚、湯川、石原家の養子になった。

 

 小川家が「借家で点々とした」理由については連載第3回で触れたが、もう一つ気づくのは借家の家主がいずれもお公家さんであることである。どうもこの背景には明治維新で天皇が東京に移った後に残された公家たちの経済事情があったようだ。維新の激動期に多くの公家は京都を捨てて東京に移って由緒を活かした新時代の職におさまった人も多かったが「京都に残った」公家には適当な職がなかった。明治17年の華族令で爵位の名誉はもらったが、政府からの経済支援は一時金や貸付金であり、借金問題が多発、巷の話題にもなったようで、「六条さん」もこの例のようだ。刑部芳則『京都に残った公家たちー華族の近代』吉川弘文堂という本を見ると、中級公家たちの骨肉のゴタゴタ物語に驚かされる。

 

 

 

 

 

 

小川家の息子たち、右から長男芳樹、四男環樹、三男秀樹、次男茂樹。ここに写っていないが、五男の滋樹は戦争で亡くなった。(佐藤文隆監修『素粒子の世界を拓く』京大学術出版会より転載)

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