湯川余話第三回
小川琢治家の人々
お住まいシリーズ2
 

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 秀樹さん(1907-1982年)は子供時代の家族と住まいについて次のように書いている。(今回の引用文は全て湯川「二人の父」1942年による。『湯川秀樹著作集』第7巻、岩波書店)

 家族は「両親と子供が7人、上二人が女で、男が五人、私は三男であった。それに母方の祖父母、父方の祖母も同居していたから大変な大世帯であった」。その上に学者である父は、漢籍や趣味の書など、「あらゆる種類の書物に興味を持ち、何とも分類の出来ない雑書が家に堆積していた。幾つも土蔵のある広い借家ばかりをさがして移り住んだのも、まったくこの厄介物のためであった。私ども兄弟も玄関から寝室にまではみ出した書物の中にあっては、いやでも読書家とならざるを得なかった」。現代では子供が二人ぐらいの核家族を想定した「住まい」を考えがちだが、秀樹さんが子供の頃の小川家の事情は随分違っていたようである。

 ここで改めて実父小川琢治(1870-1941年)についてみておく。和歌山県田辺市の浅井家に生まれ、学生時代に小川家の養子に入り、後の1894年、小川家の娘小雪と結婚する。両方の祖父母が同居なのはこのためである。母方の祖父駒橘は孫たちを漢籍の素読で躾けたという話は有名で、学者が4人も出た背景だとも言われている。

 「父は一高時代に地質学専攻を決意し、在学中にすでにあちらこちらへ、地質の調査、岩石の採取などに出かけたようである。そして1896年大学を卒業するまでに「台湾諸島誌」と題する四百ページ近くの書物を公にしている。卒業後、地質調査所の技師となったが、1900年パリで万国博覧会及び万国地質学会議が開かれる際、最年少の技師として参列した。そして博覧会の審査員の一人として、フランス政府から勲章を授与されたことは、父の後々までの自慢の種の一つであった。この機会にフランスの一流学者の多くに接触し得たことは、父のその後の研究生活に相当な影響を及ぼしたらしい」。その後「1904年、日露戦役に際し、父は大本営御用掛として、我が軍の手に落ちた煙台炭坑の地質調査におもむいた。それに引き続いて撫順炭坑の接収、間島調査など満州において活動を続け、帰るとやがて京都帝国大学文学部で地理学を講ずることになったのである」。(年号は西暦に変換。戦前の文章だから「我が軍の」とある)。

 

 こうして1907年1月生まれの秀樹さんは翌年東京から京都に転居したのである。出生地は東京の麻布市兵衛町二丁目、小さな赤ん坊で、お産は軽かったという。実はこの住まいは民芸運動などで文化史に名を残す柳宗悦の親の屋敷にある借家だったという。宗悦の父楢悦は幕末に留学し、明治政府下で日本列島の海岸線の地図を完成させて「海の間宮林蔵」とか言われた。海軍水路部の創設者で、日本数物学会の創設にも預かるなど数学研究界にも貢献があった。海軍少将や貴族院議員まで位を極め、広大な屋敷に住んでいたが59歳で頓死した。宗悦は三男であったが、兄二人が夭折したので、財産を受け継いだ。日本柔道の開祖者嘉納治五郎の姉である楢悦の妻勝子は、収入を得るために屋敷の一角に借家を建てたが、小川家はそこに一時いたのだ。楢悦と琢治は世代は違うが同じ地図や測量の専門であるので借家情報に接したのかも知れない。

​  小川琢治、小雪(佐藤文隆監修『素粒子の世界を拓く』京大学術出版会より転載)