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湯川余話第九回
京都大学物理学科に
お住まいシリーズ7

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 昭和にはいった1926年、秀樹さんは京大の理学部に入学していよいよ物理学の研究の道を歩み出しました。新入生は学部長の前で署名をする慣わしなので、理学部長だった父琢治の前で署名しました。いま、理学部は今出川通りの北の北白川の北部構内にあるが、当時の物理学科の校舎は本部構内の正門を入ってすぐの西側にあるレンガづくりの二階建ての建物でした。湯川・朝永・福井謙一の各氏がここで研究したので、「ノーベル賞の館」として写真1のように今も保存されています。

 北白川に移転したのは1929年のことです。この頃に今出川通りと東山通りが拡幅されて京大の周囲に市電が通ったのですが、市電のパンタグラフの火花による電波が物理実験に悪影響が出るので予め移転したという。写真2は物理学科として新しく建てられた二階建ての建物の玄関周りです。ネオクラシックのスタイルという大変モダンな設計でした。1960年代の終わりに同じ場所に5階建ての今の校舎が建ったので、この建物は今は残っていない。秀樹さんは学部学生時代の三年は吉田の正門横の古い校舎で学びましたが、卒業して無給の副手として大学に残った時には、ちょうど北白川の新建物が出来た時で、そちらで研究を始めました。

 

秀樹さんの「学びの場所」の話が長くなりましたが、「お住まい」の方は、東桜町の家の後は、「一時下鴨にいたが、間もなく塔ノ段へ越した。塔の段にきて、また四、五軒先にひっこしした。それが塔ノ段毘沙門町の角の、白壁の家である」(『旅人』)ということです。この時期は琢治が定年で京大を退職(1930年3月)するよりは前の様だが時期ははっきりしない。京大物理学科の初代教授の一人であった村岡範為馳が住んでいた家を購入したもので、白壁の塀で囲まれた400坪もある広い屋敷でした。琢治にとっては初めての借家でない家でした。ここは秀樹さんが結婚して大阪に移り住む1932年までの間の住まいでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真1 京大の正門を入って西側にある初代の物理学科の建物(京都大学HPより転載)。

 

 

 

 

 

 

写真2 北白川構内にあった二代目の物理学科の建物の玄関付近(京都大学理学研究科編『京大理学部 知の真髄』京都大学学術出版会に所載の佐藤文隆「玉城嘉十郎と紡ぎだされた壮大な物語」より転載)。

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