湯川余話第六回
荒神橋を渡って一中と三高へ通う
お住まいシリーズ5

佐藤文隆(さとう ふみたか)

京都大学名誉教授

 染殿町や東桜町で暮らした秀樹さんの子供時代の思い出である。

 「出町には、弁天様があった。出町から今出川の通りにかけて、月に二回、十四日と二十二日に縁日が出た。露店に燃えるアセチレンのにおいは、今もあざやかによみがえって来る。家の二すじ南には、荒神様のお社があった。ここの縁日にも露店はたくさん出た」(湯川『旅人』)。のぞきからくりや紙芝居も子供たちを魅惑するものだった。のちに湯川はこの当時を回顧して

「たそがれて子等なお去らぬ紙芝居、少年の日は遠くはるけし」

という歌に詠んでいる。京福電車は1925年の開業なので、まだなかった。

 

 小川家の子供たちは、上の二人が女子で、あと5人が続けて男子である。姉たちが嫁にいってしまうと、それまで姉たちの「学校友だちが遊びに来て、家の中が時々花やかになった。男兄弟だけ残ると、家の中は急に殺風景に感ぜられ始めた」(湯川『旅人』)と記している。

 

 1919年、府立第一中学校(現在の府立洛北高校)に入学する。当時は現在の近衞中学校の位置にあった。東桜町の家から荒神橋をわたって、歩いて通学した。「この古い橋のたもとに出ると、まっすぐに叡山が見えた。その右に少し低く大文字山。さらに低く、吉田山が見える。青春を謳歌し、青春に傷ついた三高生が、一人のこらず愛した山である」(『旅人』)。中学、高校と、7年以上通い慣れた荒神橋からのこの光景は、ながく、京都の心象風景だったのでないかと思う。

 

 旧一中を卒業した秀樹さんは、旧制第三高等学校(現在の京都大学教養部)の理科甲に入学した。秀樹さんは、この三高で、生涯の盟友でもありライバルでもある朝永振一郎と出会った。当時の旧制中学は五学年まであるが、単位を満たしておれば、四年で卒業して高校に進学することができた。振一郎さんは中学までは秀樹さんの一年上級生なのだが、病欠で5年生までいって卒業したので、中学四年で進級した秀樹さんと高校で同学年になったのである。

 

 振一郎さんの父も、京大文学部創設時の人事で、秀樹さんの父と同時期に京都に赴任したが、すぐに海外留学になったので、家族は母方の東京の実家に移り住みました。父が帰国して再び京都に戻ったのは振一郎さんが小学一年の二学期からでした。朝永一家は聖護院に住んでいて、学校は錦林小学校でした。それまで東京で育ったので京都弁に苦労したという。

 

 今(2022年)から百年前の晩秋、アインシュタインが一ヶ月半ほど日本を訪問した。振一郎さんはこの時にアインシュタインの相対性理論に関心を持ち、岡崎公園であった関連のイベントを見に行ったりしている。しかし中学4年生だった秀樹さんはまったく興味を示さなかったようで、のちに当時の自分を次のように回想している。「雑誌『近衞』に童話を書き、幾何の魅力につかれ、進化論の理解に苦しみ、そして老荘の書に人生を思う。・・ そんな、一見不統一な少年期の心情というものは、今から思うとむしろ微笑ましい」(湯川『旅人』)。雑誌『近衞』とは一中の校内文芸誌である。中学ではいろいろ迷ったが、高校入学でやっと理科の方向に定まった。

 

 第一外国語の選択で分けられる高校のクラスは別でしたが、堀健夫が担任する物理学の力学演習の授業は一緒であった。この授業では毎回演習問題を解いて発表したりするので、成績の良い二人は互いに意識するようになった。堀は当時京大理学部卒2年目の講師、後に北海道大学教授を長く務めた。朝永家の長女、振一郎さんの姉と結婚している。

 三高の力学演習のクラス。前列右端は小川秀樹、後列右から二人目は朝永振一郎。

 前列背広姿の教師は堀健夫。(佐藤文隆監修『素粒子の世界を拓く』京大学術出版会より転載)